SUSHI TIMES

つぶれかかったからこそ生まれた、奇跡の熟成鮨(前編)

マグロ、ありません。ウニ、ありません。コハダ、ありません。赤貝、ありません、アナゴ、ありません……。かつては、お客さんが怒って帰ってしまったこともあったそうです。これは鮨屋ではない、と。しかも、店があるのは東京の端っこ、川崎市との境目です。わざわざ出向かなければいけない場所なのです。

しかし今、この店は、鮨をよく知る人の間では知らない人はいない店になっています。築地の仲買や有名鮨店の大将たちがプライベートで訪れる姿も珍しくありません。予約もなかなか取れない。ミシュラン5年連続2つ星。それが、東京・二子玉川の「㐂邑(きむら)」です。

熟成ブームは、肉のみならず、今や魚でも広がってきており、熟成鮨をうたう店が次々に出てきていますが、魚の分野でこの世界を作り上げたのは、間違いなく㐂邑でしょう。3日や4日、寝かせるのではない。魚によっては1ヶ月以上も寝かせるという、常識ではありえない取り組みに挑み、食通たちをうならせることになりました。㐂邑は、「熟成鮨」という新しい世界を生み出した店なのです。

■すし 㐂邑(きむら) 店主 木村康司氏
2005年、東京・二子玉川で開業。白身や青物を長期熟成させて旨味を最大限に引き出す「熟成鮨」を生み出す。ミシュラン5年連続で2つ星を獲得し、予約を取りにくい鮨店の一つである。

新鮮じゃないから旨い

2015年頃のことです。

当時は、魚の熟成などという言葉はありませんでした。その後、魚の熟成はブームになっていきます。僕自身は3年ほど前から、その存在は耳にしていました。しかし正直、邪道ではないか、際物ではないか、と勝手に思っていたのです。ちょうど熟成ブームがやってきていたこともあり、そうした流れにも僕自身は興味を持てませんでした。

しかし、知人に連れられて㐂邑に行くことになり、本当に驚きました。まさに衝撃でした。食べたことのない味。魚が本来、持っている旨みが最大限出されている。こんな鮨があるのか、と思いました。もちろんマグロは出てきませんでしたが、マグロが出てこなかったことに、気づかなかったほどでした。以後、3カ月に1度は貸し切りで予約し、いろんな人たちに㐂邑の「熟成鮨」を食べてもらうようになりました。

子どもの頃から、おいしいものを食べていた

㐂邑の開業は2005年。実は開業当初からメディアに出ていません。その後も数えるほどしか取材に応じていない。お店の紹介は少しありますが、木村さんのインタビューはほとんどありません。熟成鮨という究極のオリジナリティに挑んだ人。極めて貴重なインタビューです。

木村さんは1971年、東京の鮨屋の3代目として生まれています。神田で祖父が創業し、戦争で焼かれて武蔵小山に移り、父親が店を継いでいました。特に修業に出たりすることなく、この店で鮨の技術を身につけたといいます。

「中学生のときから手伝いを始めて、ちゃんと板前になったのは20歳くらいからですね。祖父と、祖父の一番弟子の人にぴったりくっついて教わりました」

料理学校にも行っていません。実のところ、祖父や父親が商売で大きく成功して裕福だったわけではまったくなかったそうです。しかし、子どもの頃から、おいしいものはよく食べに行っていたといいます。

「一流ホテルで、おいしいものを食べる。お金があるわけでもないのに、よく行っていましたね。小さいときの旅行の記憶はありませんが、食べ物屋さんにばかり行っていた記憶があるんです」

食に関わる人には、実はこういう経験のある場合が少なくありません。子どもの頃においしいものを親に食べさせてもらっていた、というのは大変な影響力を持つようです。味覚はもちろん、食に対する思いも作る。親の食育の重要性を改めて思います。

木村さんは33歳で独立することになりますが、それまでも自分でよく食べ歩いていたそうです。

「祖父の鮨にプラスして、今の新鮮な魚貝を使い、自分の名前で江戸前だけではない自分の鮨店をつくりたいと思うようになりました。マグロもあるし、ウニもある。そういう普通の店を描いていました」

まったく異業種のてんぷら店で修業

オリジナリティ溢れる熟成鮨を作った木村さんですが、実は最初から突き抜けた方向があったわけではありません。いろいろな経験をしていく中で、それは後から生まれていったのです。最初からオリジナリティがなければいけないわけではない。やりながら試行錯誤で生まれていくものでもある。では、何がそれをもたらしたのか。たくさんの伏線が、そこには潜んでいました。

鮨店では超有名店など他店で修業するというケースもありますが、木村さんはその選択をしませんでした。

「鮨には自信がありました。今さら別の店に行って、ああじゃねぇ、こうじゃねぇと独立寸前に注意されるのも嫌でしたよね。やりたいことがもう明確でしたから」

ただ、一店だけ木村さんが修業に行った店があります。それが、てんぷらの名店「美かさ」でした。川崎市宮崎台にあるにも関わらず東京はもちろん日本中からわざわざ食通が集う予約困難なお店です。

「祖父の鮨店に美かさの大将が来てくださっていて、美かさは自分もよく行っていた店だったんです。てんぷら屋さんは鮨屋とは仕入れと仕込みが違う。その勉強をさせてもらえる、ということだったので、修業に行かせてもらうことにしたんです」

独立してオープンする前の半年間でした。実際に行ってみると、仕入れも仕込みもまるで違っていました。そしてこれが、後の熟成のヒントにつながっていくことになります。

「鮨屋というのは『水商売』なんです。水を使う。魚も水で洗う。でも、てんぷら屋さんでそれをやると油がはねる。だから、てんぷら屋さんは水を極力使わないんです」

魚は水分が多いと腐敗しやすく、腐敗臭もする。魚を熟成させるとき、腐敗させないためには、いかに魚から水分を抜くかがポイントとなる。水を極力使わない異業種のてんぷら屋での学びが、のちに生きてくることになります。

最初からメディア取材はすべて断りました

そしてもう一つ、美かさで学んだのが、超一流の店の仕事の厳しさでした。

「半年の修業でも学べることはあるからおいで、と言われて、市場にも一緒に連れていってもらいましたし、掃除も営業も仕込みもつまみ作りもやらせてもらいました。でも、優しい大将ですが、仕事の場では豹変するんです(笑)。それはもう、このときは地獄でしたね(笑)」

ウドをマッチ棒の大きさに切るのに、1ミリずれたら全部やり直し。

「結局、裏で誰が作って出そうが、その料理は大将が作ったものとしてお客さまは食べる。だから、何かずれていると気に入らないわけです。100点で出せ、と。これは勉強になりました」

半年の修業の後、㐂邑をオープンします。当初は普通の鮨店でした。

「普通の鮨屋です。生もの中心。つまみも出して、おまかせで値段を固定して。今から振り返ると、何の特徴もない店でした。でも、新しい店ですから近所の人たちも来てくれて」

このとき、木村さんはメディアの取材を断っています。

「全部、断りました。腕に自信があったから。雑誌に出たから売れた、なんてなりたくないと思っていましたから」

この美学は素晴らしいと思います。ここまでのこだわりと自信があったからこそ、後の㐂邑が生まれるわけですが、当初、現実は甘くはありませんでした。メディアによる集客が、まったく見込めなかったからです。

「しかも2年目からは、美かさの大将のアドバイスで、美かさのように『入れ替え制」を取り入れることにしました。5時30分と7時30分の入れ替えです。ガラガラなのに6時30分にお客さまが来ても、ちょっと一杯です、と断ったりして』

改めて気づいた。「自分には武器がない」

住宅街にあるお店です。なんだか面倒な店だ、という噂が広まります。そして3年目。店は極めて厳しい状況に追い込まれることになります。

「週に3、4回、ボウズですから。誰も来ない。電話が壊れているんじゃないか、と何回、思って調べたことか(笑)」

しかし、ここで木村さんは時間制を変えたりするようなことはしませんでした。値段も下げなかった。ポリシーを曲げると一時的には売り上げは上がるかもしれませんが、長期で見れば店は沈んでいく、と考えていたからです。だから、安きには流れなかった。

「それをやってしまうと、地元の人のサロンになってしまうと思ったんです。ジャージで来て飲んでダラダラ。そのうちテレビを、カラオケを、となる。そんな店になったら嫌だな、と。これでは、自分のやりたいことができなくなる。わざわざ他のエリアから来てもらえるようなこともなくなる」

これもまた、自分なりの美学だったのだと思います。では、どうするか。

「ここで初めて、自分の店に来てもらう武器がないことに気づいたんです。東京の真ん中にも山ほど鮨屋はあるのに、わざわざ一番端っこに来てもらう理由がない、武器がない、ということです」

最初に思い浮かんだのは、鮨の華、マグロでした。しかし、同じ沿線の用賀にマグロで有名な鮨店「あら輝」がありました。同じ世田谷区の奥沢には「入船」があった。マグロで3番手になっても誰もこない。一方で、コハダなどの〆ものは老舗には勝てない。

「半年くらい悩みました。そこで思い浮かんだのが、白身だったんです。白身が好きで、白身は本当にいい魚を買っていた。自信もあった。でも、ボウズばかりでお客さんが来ないですから、おろさないでそのまま腐ってしまう日が多かった。それで捨てていくだけだったんです」

腐る寸前に甘くなるというのは、こういうことなのか。

3、4万円もする魚を、1週間使わずに捨てることもよくあることだったそうです。いい魚を買っては腐らせる日々。そんな中で、ふと思いついたのが、腐った魚はどうなっているのか、という興味でした。

「出刃で真ん中を割って折って中を見たら、脊髄のまわりだけ色が黒くなかったんです。これはもしかして食べられるんじゃないかと思って、ほじくり出して食べてみたら、匂いはひどいが、白身の魚じゃない甘い味がしました。腐る寸前に甘くなるというのは、こういうことなのか、と思いました。もしこの味が、何の匂いもなく出せたら面白いんじゃないか、と」

ここから木村さんは、さまざまな“実験”をスタートさせます。冷蔵庫をもう1つ購入し、温度を少しずつ変えて痛みがどう変化するかを調べる。内臓はどこから傷むのか、向きで傷み方の変化はあるのか、内臓を取った場合はどうか。こうして傷みのメカニズムを理解していくことになります。

興味深いのは、文献などを読むのではなく、自分で試して知識を蓄積していったことです。だから、自分で突き詰めることができた。そして木村さんは、熟成の最大のポイントに気づいていくのです。

後編に続く)

■木村康司
㐂邑(きむら) 店主
1971年東京目黒区生まれ。武蔵小山にあった鮨店の三代目で、33歳で世田谷区の二子玉川で㐂邑を開業した。試行錯誤の末、独自の「熟成鮨」を生み出した。2013年版から5年連続でミシュラン2つ星を継続している。

■㐂邑(きむら)
住所:東京都世田谷区玉川3-21-8
営業時間:
昼の部 水曜日・日曜日のみ12:00~の1部制
夜の部 17:30~19:30、19:30~22:00の2部制
定休日:月曜日
座席:9席(カウンターのみ)

出典:CAMPANELLA