寿司は江戸の大火事から生まれた!? | SUSHI TIMES

寿司は江戸の大火事から生まれた!?

寿司の誕生は意外にも江戸の大火事がきっかけだったということを知っていましたか?

明暦の大火(めいれきのたいか)

明暦の大火は、明暦3年(1657)正月18日、本郷本妙寺から出火して、翌日にかけて江戸城本丸を含む府内のほぼ六割を焼失、焼死者10万人余を出した江戸最大の火事の一つ。その被害総額は現代の通貨換算で810億円とも言われます。ローマの大火・明暦の大火・ロンドン大火を世界三大大火と呼びます。関東大震災や東京大空襲なみの大惨事だったのです。この後、江戸の都市計画が進められました。

火事の焼け跡から発生した外食産業

その焦土復旧作業のために諸国から職人が集まり、江戸の町に気軽に飲食ができる煮魚、野菜の煮物などの煮炊きした惣菜類を店頭で売る辻店「煮売り屋」ができたのが、日本の外食産業の始まりでした。それまで飯とは家で食べるものだったので、江戸にはほとんど大衆向けの食堂つまりごはん屋、食べ物屋というものがありませんでした。記録でうなぎ屋や蕎麦屋や、ファーストフードの屋台寿司がどっと登場するのは明暦の大火以後のことです。

初めての外食店は「奈良茶飯」

こうして江戸の町に初めてできた外食店は当時庶民に親しまれていた「奈良茶飯」を提供する店でした。

奈良茶飯(ならちゃめし)とは、少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだもので、しじみの味噌汁が付くこともあります。現代でいう、「定食」ですね。

現代より多かった蕎麦屋

その後飲食店が江戸で急増、蕎麦(そば)屋が大流行しました。蕎麦を売る店は時代を経るにつれ増え続け、江戸時代後期の1800年代には、江戸に700軒ぐらいの蕎麦店があったとされています。これは、当時の飲食店で最も多かった居酒屋に次ぐ数字です。

「江戸八百八町に蕎麦屋は数え切れないくらいあるが、うどん屋は万に一」とあることからも当時の蕎麦屋優勢ぶりがうかがえます。 こうして蕎麦は江戸で勢力を拡大していき、江戸時代末期には江戸市中の蕎麦屋は3760店を数えたといいます。現在の東京の蕎麦屋店舗数よりも多かったのです。

寿司の誕生

ご存知のように握り寿司の寿司屋が誕生したのは、江戸の町。寿司も当時、奈良茶飯や側と同様、やはり安価な大衆食でした。誕生した当初は、庶民が気軽に立ち食いできる屋台としてスタートしました。当時の寿司は今のようにひとくちサイズではなく、おにぎりのような大きさだったため、小腹が空いたときにひとつふたつをおやつのように食べるというスタイルが多かったようです。

天ぷら屋台の誕生

天ぷらも庶民の軽食として親しまれました。串に刺した天ぷらを立ち食いするのが当時の食べ方でした。江戸時代の天ぷらは小麦粉を水で溶かして衣とし、具材としては、江戸末期の百科事典「守貞謾稿」(嘉永六年(1853年))によれば江戸前のあなご、芝海老、こはだ、貝の柱、するめであったと言います。これらが串刺しにされて屋台で提供され、ファストフード気分で気軽に食べられていました。

うなぎは庶民の料理だった

うなぎの蒲焼も江戸時代に大流行し、料亭、定食屋だけでなく、庶民料理として露店で販売されていました。
1852年には「江戸前大蒲焼」なる江戸の鰻屋が221軒も掲載された番付表が出たほどです。

寿司も天ぷらももともとは焼け跡からの復興期に生まれた庶民食、つまりB級グルメだったのです。
この頃の屋台は肩に担げる簡素なもので、鮨屋や天婦羅屋なんかの屋台は解体して移動してたそうです。食べ方はほぼ立ち食いで、店側が座って客側が立つ、ってのは今の時代ではあまり見ない構図かもしれませんね。

出典:江戸時代の東京から始まった寿司屋の歴史
江戸食文化の醤油を知る
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