伝説の寿司職人が不利な条件の「ハワイ」で成功できた理由 ~『旅する江戸前鮨 「すし匠」中澤圭二の挑戦』(一志 治夫 著)を読む(前編) | SUSHI TIMES

伝説の寿司職人が不利な条件の「ハワイ」で成功できた理由 ~『旅する江戸前鮨 「すし匠」中澤圭二の挑戦』(一志 治夫 著)を読む(前編)

『旅する江戸前鮨 「すし匠」中澤圭二の挑戦』。そこには伝説の鮨職人・中澤圭二が挑戦を続ける姿が描かれている。

著者の一志治夫氏は、「現代」誌記者などを経てノンフィクション作家に転身。主な著書に『狂気の左サイドバック』(第1回小学館ノンフィクション大賞受賞)、『失われゆく鮨をもとめて』(新潮社)、『奇跡のレストラン アル・ケッチァーノ』(文春文庫)などがある。鮨通としても知られる一志氏が、その人柄と仕事ぶりにほれ込んだ中澤圭二は、日本でもっとも影響力があるとされる鮨職人の一人だ。若手鮨職人たちに尊敬する職人を尋ねると真っ先に名前が挙がる人物でもある。

中澤が開店した四谷「すし匠」は、米国の料理店ガイド「ザガットサーベイ」東京版で料理部門のトップに輝く名店。

鮨好きならば一度は行ってみたいと思う店だろう。だが中澤は、その名店を50歳になる直前に、弟子の一人に譲ってしまった。そしてその3年後の2016年、なんとハワイに「すし匠ワイキキ」をオープンしたのだ。常夏の国”ハワイでは、江戸前鮨に適した身の締まったおいしい魚は手に入りにくい。では、なぜ中澤はハワイに渡ったのだろうか。

新天地「ハワイ」で、江戸前鮨の原点に立ち戻る

中学卒業後、15歳で料理の世界に入った中澤は、20軒もの鮨屋で修業を重ねるとともに、スナックの店長なども経験する。1989年、東京・千代田区二番町に「すし匠さわ」を開店。雇われではあるが、26歳にして店長に就任する。

「すし匠さわ」はバブル崩壊で親会社が飲食部門を閉鎖したため、閉店を余儀なくされる。だが、中澤の腕を惜しんだ常連客のすすめもあり、1993年には四谷に自身の店「すし匠 はな家与兵衛」(四谷「すし匠」)をオープンするに至ったのだ。店名は、1824年に華屋を開業し、現在の江戸前鮨を考案したとされる小泉與兵衛にあやかってつけられた。

江戸前鮨は、ただ魚を切って酢飯と一緒に握るだけのものではない。魚は、塩をふられたり、昆布締めにされたり、漬けや煮つけにされたりと、何らかの加工が施される。職人は、手を加えることで、極限まで素材の魅力を引き出そうとするのだ。それは、究極の味を追求するとともに、冷蔵保存が難しかった時代に安全な魚介類を供するための知恵でもあった。

だが、1993年当時の業界の主流は江戸前鮨ではなく「海鮮鮨」だった。海鮮鮨では新鮮な魚をそのまま素材にする。修業中に江戸前鮨に魅せられた中澤は、その復権を決意。四谷「すし匠」で江戸前鮨を本格的に極めることにしたのだ。さまざまな創意工夫を重ねた中澤は、国内で鮨職人としての高い技術と名声を手に入れる。そして次にめざしたのが「海外進出」だった。

ここで、ビジネス的な成功を望むのならば、大都市への進出を考えるのが普通だろう。一定数以上の集客が見込め、高い客単価も期待できるからだ。実際にその当時でも、ニューヨークやシンガポールには、日本人が握る高級な鮨店が存在した。それらの店では、築地や九州から最高の魚を空輸し、ネタに使っていた。しかし中澤は、別の道を歩むことにした。たまたま声がかかったハワイでの出店を決意したのだ。しかも、他の海外高級鮨店のように日本からネタを空輸するのではなく、「地元の魚を使う」ことにこだわった。

前述のように、常夏のハワイで鮨に使えるおいしいネタを現地調達するのは簡単ではない。そこで中澤は、江戸前鮨の原点に立ち戻ることにした。つまり、素材の良さを引き出す術を探り始めたのだ。それは、不利な条件の中で自身の職人としての腕を磨くとともに、江戸前鮨の可能性を切り開く一大チャレンジだった。

(文/情報工場シニアエディター 浅羽登志也)

後編に続く
出典:ダイヤモンド・オンライン