赤酢のシャリありきで、そこに魚を合わせようと考えました。

■強烈に記憶に残る赤酢シャリ

 

2013年秋、『ミシュラン東京2014』で1つ星を獲得。新規の鮨店が1店だけだったこともあって一気に話題になり、大きく知名度を上げることになったのが東京・銀座の「鮨とかみ」だ。
なんと言っても最大の特徴は、シャリ。與兵衛(よへえ)の赤酢を使ったとかみのシャリは、そこまでやるか、というほどの色の濃いシャリなのです。味も濃い。初めて食べる人はみんなびっくりします。ところがこれ、一度食べたら忘れられないのです。強烈に記憶に残る。店主の佐藤 博之氏にインタビューした。

 

ウェイターという職業が日本では成り立たないと思った

 

最初からまったく継ぐ気はなかった、と語る佐藤氏の実家は鮨屋だった。父親は新潟の町場の鮨屋で生まれ、集団就職で兄弟たちと上京。車関係の仕事に就いていたが、手に職をつけたほうがいい、ということで辞めたのだそう。

 

「脱サラですね。それで、兄弟や親戚何人かで鮨屋を始めるんです。お米は実家で取れる、と。それこそ屋台の鮨屋の時代。それから、兄弟それぞれが店を持つようになって」

 

いわゆる町の鮨屋。子どもの頃から鮨は身近にあった。

「店と家は違いましたから、頻繁に、というわけではありませんでしたが、小学校の遠足や運動会のお弁当は、決まって太巻きや巻物でしたね。これが嫌でした(笑)。のり弁とか、おにぎりとか、サンドイッチみたいな、みんなと同じものが食べたかった。逆にみんなからは、いいなぁとうらやましがられていましたけど、それがまた嫌で(笑)。派手なタイプじゃないんです。みんなと一緒が良かった」

 

高校時代にバンドを始め、バンドマンに。その延長線上で、グローバルダイニングの「ゼスト」で働くようになる。19歳のときだった。

「ここでサービスの楽しさ、飲食の楽しさを学びました。ずっと飲食に携わりたいな、と思うようになったのは、この頃からですね」

2年後、飯倉のゼストの店長を1年間務める。さらに、レストラン「NOBU TOKYO」で仕事をした。

「下働きから始めて、席のサービスを任されるウェイターになったら名刺をくれる、というので、そこまでやろうと頑張って。最後は、名刺をもらって辞めましたね。グローバルダイニングでもサービスは学びましたが、ちゃんとレストランサービスをやっている先輩がいたので、その人からハイエンドのサービスを教わることができました」

 

佐藤さんは1年で仕事を離れ、25歳でアメリカへの旅に出た。特に目的があったわけではなく、3カ月ふらりと行ってきたのだとか。

 

「ロサンゼルスから入って、アリゾナに行って、ニューオーリンズ、ナッシュビル、メンフィスを回って、マイアミ、ナイアガラのほうまで行って、シカゴも行って、シアトルまでぐるりと。全部、長距離バスです。アメリカの文化を見たかったというのもあるんですが、国民性が好きで、アメリカに触れてみたかったんですよね」

 

このアメリカ旅行で、佐藤氏は考える時間を得た、と言う。そして出た結論が、鮨屋になる、という選択だった。

 

「ウェイターという職業が、日本では成り立たないと思ったんです。それともう1つ、お客さんと接することが一番好きだったので、その最前線にいたかった。いろいろ考えたら、鮨屋があるじゃないか、と。カウンター商売で、お客さまに常にサービスしながら反応も見られる。しかも日本にルーツがあって、1人でもやれる。レストランをやろうと思ったら、人が必要になりますから。でも一番大きかったのは、実家が鮨屋だったことかもしれません。天ぷら屋だったら、天ぷら屋をやっていたかも(笑)」

 

振り返れば、我慢を覚えたことが一番、身になった

こうして佐藤さんは、25歳で鮨の修業を始めます。しかし、これは驚くべき選択です。鮨職人は、中学や高校を出てすぐに修業に入るのが常識。また、グローバルダイニングのような店で働いていた佐藤さんには、鮨屋は形式的で厳しい上下関係があるという真逆の環境だったはずです。13年前ですから、鮨ブームも来る前。若手が鮨で独立するような空気もまだありませんでした。

 

「はい、入った瞬間にもう泣きそうになりましたね、本当にガチガチで。グローバルダイニングとの、この文化のギャップは何だろう、と(笑)」

10代の“先輩”は当たり前の世界。25歳ではオッサン扱いです。とろとろやってんじゃねぇ、なんて声も飛んだはずです。

 

「だから考えたのは、大所帯のところは選ばないこと。順番があるので、時間がかかるじゃないですか。年数は決めていませんでしたが、個人店で、できるだけたくさんの仕事が見られるところで、とにかく一人前になるまで頑張ろう、と。ただ、それだけでした。ここで我慢できなかったら、もうたぶんだめなんだろう、と」

 

選んだのは、銀座の老舗「銀座久兵衛」で厳しい修業を積んだ親方のいた、渋谷の「秋月(あきづき)」。実は佐藤さん、このとき、久兵衛の存在も知らなかったのだそうです。もちろん、魚をおろしたこともない。そんな状況から25歳で飛び込んだのです。

 

「18歳で入っていたら、すぐに逃げ出したと思います(笑)。25歳で腹をくくって入ったので、我慢ができました。いつかは独立したい、と思っていましたね」

 

もちろん一番下っ端からのスタート。上下関係がすべての世界。正論は通用しません。理不尽なこともたくさんありました。グローバルダイニングでやってきたことは、すべて否定されたそうです。もう何も言えなかった。

 

「いろいろ教わりましたが、振り返れば、我慢を覚えたことが一番、身になりました。もう何でも耐えられる、と思えるようになりましたから。でも、楽しかったし、充実していた。少しずつ慣れていって、自分が何をすべきかも見えていきました」

 

修業は6年に及びました。しかし、鮨を握らせてもらうことはありませんでした。

 

「仕事が終わってから親方に、何かちょっと切れっ端握れよ、くらいですね。あとはお土産の太巻きを巻かせてもらったり、座敷の巻物くらい。握りは一切ないです。それこそ、6年しかやっていないですから」

 

ただし、仕込みは基本的に全部やらせてもらったといいます。魚は頭落とし、ウロコ落としから、おろすところまで。包丁を使わないイカの仕込み。最終段階は、アナゴや卵焼き。

 

「マグロの解体や柵取りは親方の仕事なので、補助はさせてもらいましたが、見て覚えました。あとは、つまみも味付けを補助でやらせてもらったり。基礎的なスキルは、ここで覚えることができましたね」

 

ただ、これ以上いると抜けられなくなる、と直感的に思ったそうです。ちょうど母親が腰の手術をすることになり、実家の手伝いをする、という名目で退職の道を選びます。31歳になっていました。次の行き先は、決まっていませんでした。

 

鮨を握ったことがないのに、銀座の鮨屋をやれることに

 

ここからの佐藤さんは、絶妙な縁によって人生が切り拓かれていくことになります。しかし、それは修業時代から、人の大切さについて意識していたからだと思います。

 

「お店が小さかったですから、直接お客さんに握ったり、ということはなかったわけですが、鮨屋の小僧として、かなり気の利かせ方を勉強させてもらっていました」

 

実家の手伝いを経て、NOBUで働いていた先輩の仲間に誘われ、イタリアンのダイニングレストランの鮨カウンターで仕事をすることになります。曲がりなりにも6年、しっかりした店で修業をしていたわけですが、鮨店ではない店を手伝うことを決めるのです。

 

「ここでは、鮨屋っぽいことはあまりしていないですね。でも、いろんな人のつながりができた。このとき、たまたま秋月の修業時代に来ていたお客さんと、ばったり遭遇しまして。今度、肉とマグロの和食の店を立ち上げるんだけど、一緒にやらないか、と誘ってもらったんです」

 

この和食の店を一緒に立ち上げようとしていたのが、やま幸の山口さんだったのです。

 

「自分で独立しようかどうしようか悩んでいたんですが、周りの先輩の話や、誘ってくれた人の話を聞いて、何か不思議なご縁だし、お世話になろうと」

 

和食店ではマグロの担当になります。ここで、山口さんの最高級のマグロを扱うことになりました。もともと秋月時代から山口さんとは面識があったそうです。

 

「修業のときから、赤酢がいい、という話は聞いていたんです。それで、いろいろ試行錯誤をしていく中で、この店で『マグロに合うシャリ』を考えていきました。僕以外の和食の職人とも仕事をさせてもらったので、鮨屋とはまったく違う仕事の仕方や流れを見させてもらったのも、いい経験でしたね」

3年にわたって、この店で仕事をします。店が移転することになったタイミングで、佐藤さんは「そろそろ鮨をやってみたい」と声を上げます。このとき、山口さんはすでに別の2人の仲間と、とかみというお店を展開していました。和食店として職人を迎えてやっていましたが、ならば、この店を鮨店にしてはどうか、という提案をもらったのです。

 

「もう好きにしていい、任せる、と言ってもらえて。それこそ、お店の名前も変えていい、と。びっくりな話でした」

 

店は銀座にありました。実はこのときまでに、佐藤さんは、ちゃんと鮨を握った経験はなかったといいます。ところが、いきなり銀座で鮨店をやれることになったのです。

 

「本当は、銀座は怖かったです。知っている街でもなかった。仕事をしたこともない。だから、本当に怖かったんですが、間違いなくチャンスでした。自分で投資するわけでもありません。失敗したところで死ぬわけではない。それこそ鮨屋をやっていて、銀座でできるチャンスは、あとどれだけ来るか、と考えたら、ないな、と。失敗してもいいから、やってみよう、と思ったんです」

 

2013年3月末、とかみが鮨屋としてスタートしました。それまでの3年、とかみは和食店として展開していましたから、それまでのお客さんがある程度いる、と聞いていました。そこからお客さんは広がっていくだろう、と。客単価も、銀座では標準の2万5000円ほどで設定しました。

 

「たしかにオープンからしばらくは元のお客さんにも来ていただいたんですけど、和食ではなくて、鮨なわけです。しかも、僕のことは誰も知らない。だから、本当に最初だけでしたね。しかも、銀座のことがよくわからない。土地勘もないし、銀座のルールも知らない。同伴は8時30分まで、なんてことも知りませんでした。誰も教えてくれませんから、わからないわけです」

 

しかし、それでも雑誌に記事を掲載してもらったり、知り合いを通じてクレジットカードの会員向け情報誌に載せてもらったりしていたそうですが、何より佐藤さん自身にお客さんがついていなかった。お店はあっという間に閑古鳥になりました。

 

「オープンが3月末だったわけですが、5月、6月には1日1組、2組はザラになりました。月に2、3回は、お客さんゼロ、という日がありました」

 

2日連続ゼロだったこともあったそうです。しかし、知名度もない。有名店で修業を積んだわけでもないのです。お店を見つけてもらうのは、なかなか難しいでしょう。

 

「オレは何をしてるんだろう、と思いましたよね。34歳で、働き盛りで、ただお客さんを待っていることしかできない。銀座のど真ん中で。かなりへこみました」

 

絶対絶命のピンチです。このままではまずい。しかし、この後、思わぬ変化が訪れることになるのです。

 

(後編に続く)

 

■佐藤 博之
鮨とかみ 店主(現在は、すでに独立)
1978年生まれ。19歳でグローバルダイニングの「ゼスト」で働き始め、飯倉の「ゼスト」の店長も務める。25歳の時のアメリカ旅行で鮨屋になることを決意し、渋谷「秋月」で6年間にわたって修業する。その後、イタリアンダイニングレストラン、和食の店などを経て、2013年3月に銀座・「鮨とかみ」を始める。赤酢を使ったしゃりと、マグロのレベルの高さで、『ミシュラン東京2014』で1つ星を獲得した。2017年3月には店を後進に譲って独立。2018年2月に銀座で新たな店を開業する。


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出典:CAMPANELLA

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